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- 歴史
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- ■1192年〜1603年 時代背景
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確実な治療法や医学的知識がなかったころ、ハンセン病は、「天刑病」(天が罰している刑であること)「業病」(過去の悪事に対する報いであること)などと呼ばれていたといいます。また、感染が家族などに広がる例があったことから「らい筋」といった家系的な経緯でうつっていくと解釈されていました。
後にそれは、江戸時代において、家筋説(遺伝説)と一般化されていきます。
しかし、そうした時代の中でも患者の救済にたった人物も現れていました。
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- ■1867年〜1906年 時代背景
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時代は明治に移り変わり、西洋医学などが持ち込まれようとする中でさえ、ハンセン病への人々の理解は、それまでの歴史的な経緯と無関係ではありませんでした。社会的に冷遇されていたハンセン病患者達は、幕末の頃、神社や寺の参道などで多く見かけられたといわれ、彼らのそうした姿は、開国により来日したキリスト教宣教師たちに強い印象をあたえました。彼らは患者に対して献身的な救済活動を行い、各所に療養施設を設立していきます。
彼らの活動は、日本における本格的なハンセン病対策の「礎」となりました。
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- ■1907年〜1930年 時代背景
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国外では、1897(明治30)年ハンセン病が感染症と正式に承認されたにもかかわらず、国内政策はこれに反して隔離政策がおしすすめられていきます。
1907(明治40)年、「法律第十一号」(癩予防ニ関スル件)が制定されたのを機に、1909(明治42)年、全国に公立療養所が5カ所設けられ、患者の収容が開始されていきます。また同時にハンセン病に対して恐ろしい感染症であるとの誤った宣伝を行い、全国的な「無らい県運動」が提唱されていくに従って隔離にいっそう拍車がかかりました。
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- ■1931年〜1951年 時代背景
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「法律第十一号」(癩予防ニ関スル件)は1931(昭和6)年に「癩予防法」(旧法)と改正、患者の完全な隔離が推し進められ、1940(昭和15)年には1万人の隔離が実現しました。
一方、アメリカからプロミンの有効性が報告され、ハンセン病治療での画期的な転換がはかられようとしていました。
この世界的な動きと逆行するような国の政策の中、全国国立癩療養所患者協議会(全患協)が結成され、自由への闘いが始まりました。
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- ■1952年〜1990年 時代背景
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第二次大戦が終了し、ハンセン病患者の人権にたいする意識は大きく変化していき、次第に「癩予防法」(旧法)を廃止する動きが活発になっていきました。
しかし、1953(昭和28)年に、その流れと全く反した「らい予防法」(新法)が制定され、患者に対する管理・隔離体制に更なる強化が加えられます。この改悪といえる法律に対して全国の療養所の自治会や全患協が一丸となって法律の改正を求めて立ち上がりました。
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- ■1991年〜 時代背景
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離島だった長島に架かった『人間回復の橋』邑久長島大橋の架橋。全患協、各療養所自治会の法律改正運動による「らい予防法」の廃止。熊本原告団による違憲国賠訴訟の勝訴。
激動の時代は過ぎましたが、それでもなお人々の心から完全に偏見はなくなりません。これからは、ハンセン病に対する正しい理解により、偏見・差別の無い世の中にしていくことが必要なのです。