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- Q1.ハンセン病とはどんな病気ですか?
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ハンセン病は、らい菌の感染によっておこる慢性の感染症で、主として末梢神経と皮膚がおかされる病気です。
ハンセン病をひきおこすのは、らい菌(Mycobacterium leprae)という結核菌と近縁関係にある細菌ですが、らい菌には他の病原性細菌とは少し違った性質があります。- ①人間の神経と親和性(結びつきやすい性質)
- ヒト(宿主)の体内に入ると好んで末梢神経の中へ入りそこで増殖するため、結果として、手足の運動まひや知覚まひ、とくに温度覚や痛覚のまひがおこります。 末梢神経の次は、皮膚・粘膜、さらに適切な治療がなされないと他の器官、たとえば眼、鼻、咽喉、睾丸などへと病気は広がってしまいます。
- ②他の病原性細菌より分裂するときの温度が低い
- らい菌は比較的温度の低いところを好みます。つまり、ヒトの体でいえば、手足の先とか頭、顔、鼻、眼、耳タブなどです。見方をかえてみますと、このような部位はすべて衣服から出ています。一見してわかりやすいところに、病気による変化が出てくるということになってしまいます。
- ③菌の増殖する速度がたいへん遅い。
- 細菌は原則として1個が2個、2個が4個。4個が8個・・・と条件さえ整えば無限にふえ続けます。赤痢菌とかコレラ菌などはおおむね1時間に数回分裂をくり返します。すなわち1個の細菌がヒトの体内に入りこむと数時間で百万個くらいにふえてしまいます。こういった病気を急性伝染病といい、病気はたいへん早く進行します。しかし、治療がうまくいくと比較的早く治ってしまいます。 一方らい菌は1回分裂するのに2~3週間かかります。ですから、たとえ感染が成立しても、体の中で菌が十分にふえて、実際に症状として現れてくる、つまり発症(病)までにたいへん時間がかかります。この期間を潜伏期とよびますが、この期間は短くても1~2年、平均4~5年で、長い例では、20~30年というような例も報告されています。また治り方もゆっくりで、短い例でも半年、長い例では数年から10年くらい薬を服用する必要があります。
- ④“らい菌”の毒性はとても弱い。
- 治療をうけていない多菌型のハンセン病患者の皮膚、粘膜、結節 (こぶ)などには、他の細菌感染では考えられないほど多くの“らい菌”が存在しています。しかし、“らい菌”の毒性は非常に弱いため、ヒトの生命がおびやかされることはありません。治療薬のなかった時代でも、“らい菌”のみの感染で死亡する例はきわめて少なかったのです。
以上がハンセン病の特徴です。最近の遺伝子工学や、生化学などの研究の進歩によって得られた知識を総合しても、ハンセン病が特殊な感染症であるといったデータは皆無で、感染症の一つであることに疑問をはさむ余地はありません。
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- Q2.ハンセン病とはどのように感染するのですか?
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一般に微生物が体の中に侵入しそこで繁殖し、体の中でなんらかの反応がおこったときに「感染が成立した」というのですが、ハンセン病では、この現象をつかまえることがとてもむずかしいのです。しかし、発症力に関してはだれもが、たいへん弱いということを認めています。発症というのは、感染が成立した後、体の中で“らい菌”が増殖し、何か人体に不都合な症状、たとえば皮疹、結節、末梢神経まひなどが現れることをいいます。
ハンセン病においては、かりに感染が成立しても発症までにつながるケースは、他の感染症に比べて低く、日本における1980年頃の統計では、感染成立例500~1000にたいして、発症してくるのは1例以下であると推測されていました。現在の日本では新しい患者の発生がほとんどないこともあり推論は不可能です。
感染経路としては最近まで、直接皮膚と皮膚とのあいだでおこる接触感染が、もっとも可能性が高いと考えられていましたが、さまざまな研究からこの経路は可能性の低いことがわかってきました。その後の研究から、未治療の多菌型患者の鼻粘膜には多数の“らい菌”が存在しており、この菌を含む鼻汁が飛沫となって排出され、新たな人の上気道、呼吸器系をとおり感染するという考え方が提唱され、現在ではこの考え方が世界的に支持されています。
感染力、感染経路に関する現在の考え方は以上のとおりですが、ハンセン病の成立にもっとも強い影響を与える要因として次の二つのものがあります。- ①ヒトの持つ“らい菌”に対する免疫力(病気から免れる力)です。
- 一般的な現象として、ヒトは成長とともに免疫機能が完成されますので、おおむね15歳くらいになりますと、“らい菌”にたいする免疫力を獲得し、ハンセン病にはほとんどかからなくなります。乳幼児期は免疫機能も未熟ですから、この時期に感染力のある“らい菌”と接触すると感染が成立しやすく、やがて発症へと結びつくことがあります。例外的ではありますが、この菌にたいしてのみ免疫不全を示すヒトもあります。
- ②ハンセン病を取り巻く環境の問題です。
- たとえば、衛生状態がハンセン病の感染に重要な影響をあたえます。とくに、生活用水に着目している研究者もいますし、水道の普及とともにハンセン病が減少したという報告もあります。また、乳幼児の栄養状態も重要な因子です。その他、社会的なストレスたとえば、戦争であるとか、インフルエンザの大流行などによってハンセン病が増加したことを示唆する話もあり、環境は重要な因子です。
この環境は、ヒトの免疫力とも複雑に関連しており、これらを総合的にとらえた、社会経済因子という言葉が最近使われてきています。つまり、この社会経済因子がハンセン病の流行とは密接に関連していて、一般的な生活水準が上昇すればハンセン病は自然と減少し、流行はなくなってしまいます。
現在の日本には、未治療患者のいないこと、すなわち、もっとも重要な感染源がないこと、生活用水を中心とする衛生状態も良好で、乳幼児の栄養状態も格段に良いこと、戦争もしておらず社会的ストレスも比較的少なく、その他、前記の諸条件をあわせて満たすケースが皆無に近いことから、新たな患者、とくに若年者層での発生はほとんどありません。事実、最近の発病者の年齢は60歳以上がおおかたで、これらのケースは、20~30年前に感染をうけた人が、なんらかの誘因、たとえば加齢、大手術、癌をはじめとする消耗性の疾患にかかることにより自分自身の免疫が低下し、潜伏していたハンセン病が発症したものと考えられています。
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- Q3.ハンセン病の治療薬はどんなものがありますか?
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ハンセン病の治療は、化学療法が登場するまでは大風子油(たいふうしゆ)(大風子という樹木の種子からとった油)が使われていましたが、効果はあまりよくありませんでした。自然治癒するケースも少なからずありましたが、病気が進行していくケースでは、それを治療によってくい止めることはできませんでした。1943(昭和18)年にアメリカで、プロミンという化学療法剤がハンセン病に非常によく効くということが報告されました。
なぜこんなに近年まで治療薬ができなかったかといいますと、この細菌がまだ人工培地で培養できなかったということに1つの原因があります。現在でもどのような培地を用いても増殖させることはできません。このため、薬品の効果を調べるには人間(ハンセン病患者)に直接薬を投与してみる以外ありませんでした。また、らい菌は実験動物で増殖させることもむずかしく、最近になってアルマジロや、ヌードマウス、マンガベイ猿といった動物でやっと成功しました。こういった動物を用いて、薬の効果などが少しずつ研究できるようになってきましたが、それまで、この方面の研究はほとんどできなかったのです。
1943(昭和18)年という年は、太平洋戦争の真っただ中で、敵国であったアメリカで発見された特効薬プロミンは、当然日本には入ってきませんでした。日本に薬が入ってきたのは戦後の1947(昭和22)年頃のことです。
このプロミンという薬は静脈注射でしか使えなかったので、その後改良が加えられ、ダプソン(DDS・プロミンをより精製したもの)という錠剤(飲み薬)として商品化され、世界中に広まっていきました。1950年代はまさに、ダプソンの時代であったといっても過言ではありません。
その後、医学の進歩、特に抗生物質の開発には目を見張るものがあり、らい菌が結核菌に似ているところから抗結核剤のストレプトマイシン、カナマイシン、ヒドラジッド(INHA)などもすべてこの病気に使用されました。しかし、ダプソンほど有効でしかも安全性の高いものはなかなかあらわれませんでした。
1966(昭和41)年、リファンピシンが抗結核剤としてはなばなしく登場します。そして、1970(昭和45)年にハンセン病に対してこの薬の顕著な有効性が明らかになりました。このリファンピシンという薬は、結核菌ばかりでなく、らい菌に対しても強い殺菌力のあることがわかり、治療期間の短縮や、再発率の減少などハンセン病の治療にとって画期的な進歩をもたらしました。
さらに、いままでのハンセン病医学にも大きな影響をあたえ、多くの学者たちが、種々の説を出して議論した病型に関しても、皮膚を調べて細菌が見つかる型(多菌型)と、菌が見つからないが他の症状によりハンセン病と診断できる型(少菌型)の二つで、実用には十分になりました。そればかりでなくリファンピシンには、この病気のもつ治りにくいという概念も一掃してしまうほどの力があります。現在でもハンセン病治療の切り札的存在となっています。
1971(昭和46)年にはクロファジミン(ランプレン、B663)という化学療法剤が治療薬に追加されます。1960年頃から少しずつ問題となりつつあったダプソン耐性菌の出現もあって、1980(昭和55)年代の初め、WHO(世界保健機構)が中心となって新しいハンセン病の治療指針を提唱されました。これが多剤併用療法(MDT)といわれているものです。多剤併用療法の主役はリファンピシンで、これに免疫抑制的に働くと考えられているクロファジミンと従来からのダプソンとを加えたものです。三剤を用いる理由は、耐性菌の出現する確率を抑えるところにあります。またクロファジミンを用いることにより、治療の途中往々にしておこる免疫反応の軽減につながるという利点もあります。この免疫反応は、後遺症をひきおこすことが多く、また、治療を長びかせがちで、患者に多大な苦痛を与えます。
多剤併用療法の出現により、ハンセン病の治療法はほぼ確立されたと考えられます。しかし、微生物と抗生物質との戦いには際限というものはなく、リファンピシン耐性菌の出現も少しずつ報告されてきており、この面での新しい研究成果が期待されています。
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- Q4.なぜ「癩(らい)」とよばずに
「ハンセン病」とよぶようになったのですか? -
それは、「癩(らい)」という言葉には過去の忌まわしい因習的な思い・考えなどがまとわりついているため、偏見をなくすためには用語の使用から考え直す必要があったからです。 もともと、「癩(らい)」という言葉そのものが差別的なのではありません。しかし、「癩(らい)」にたいしては、歴史的に“不治の病”と考えられていたことや、近年の誤った国の政策、恐ろしい伝染病だという誤った宣伝、そして、隔離政策がこの言葉に患者への恐怖感をうえつけ、排除と差別のための用語となってしまったからです。
欧米でも同様に“不治の病”というイメージが歴史的に形成されていましたが、1943(昭和18)年に、プロミンがハンセン病に多大な効果を発揮することがアメリカで報告されると、治癒する病気であることから「レプラ」「レプロシー」といった“不治の病”というイメージをもつ従来の呼称を改めていくよう動き出します。そこで従来の呼称かららい菌を発見したハンセン医師の名前をとり、治癒する病気=ハンセン病という意味で使われるようになったのです。
そうした欧米の動きに反して一方日本では「癩(らい)」という言葉は公的に使用され続けたのです。しかし、1996(平成8)年、「らい予防法」が廃止されるとともに公的にも「ハンセン病」と呼称するようになりました。
- Q4.なぜ「癩(らい)」とよばずに
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- Q5.ハンセン病は世界ではどのような状況ですか?
また世界のハンセン病をなくすために、
どのような努力がなされているのですか? -
世界のハンセン病は、まだまだ終焉を迎えるといえる状態ではありません。ハンセン病がほぼ過去の病気となったといえるのは、中部・北部ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ、日本、オーストラリア、ニュージーランドなど、いわゆる先進諸国です。しかし、これらの国々でも正確にはハンセン病が完全になくなっているわけではありません。現代社会のように人口の移動が世界規模でおこなわれている状況では、ハンセン病は先進諸国にとって輸入感染症の様相を呈してきています。アメリカ合衆国にはカリブ海諸国、中南米諸国、ベトナムなどからの流入があります。イギリスには、かつての植民地であったインドから、イタリア、スペインなどには北部アフリカ諸国からの流入が主です。日本にもブラジルや東南アジアの国々からの流入が毎年5~10人程度あります。
発展途上国の一年間の新しいハンセン病患者数は、1998年の時点で、多い順からインドの52万人強を筆頭にブラジルの4万4千人、インドネシア、マダガスカル、バングラデシュ、ミャンマー、ネパール、ナイジェリアと続きます。これら8カ国の合計は全世界の新患発生の91パーセントに相当します。当然これらの国々に、たくさん患者が登録されていることになります。つまり、この疾病は限局された国に患者がいるということになります。また、同じ国であっても地方によって大きな差があり、この分布状態も、社会経済因子と非常に強い相関を示しています。すなわち、衛生、教育の程度、経済状態といったような個々の因子が複雑にからみあって、ハンセン病の発生に強く影響しています。
また、先進国へ発展途上国から患者が移入していますが、社会経済状態のよい国では、この患者も感染源となりえないということが疫学の研究から明らかになっています。ですから、日本とかアメリカとかヨーロッパ諸国にハンセン病患者が入ってきても、これらの国ではハンセン病がまん延するといった状況は考えられません。- 世界のハンセン病をなくすための方策は
- 1. 保健衛生活動を充実させ、患者を早期に発見し、正しい治療を継続させること
2. 新しい治療薬の開発や診断薬の開発などの研究を促進させること
3. どこの社会にもある、この病気にたいする偏見を、 取り除く活動を積極的に推し進めること
などが考えられます。
日本政府としては、WHOを通して間接的にこのような活動を援助していますが、日本のNGO(非政府組織)の活動にはめざましいものがあります。たとえば、キリスト教を中心とする宗教団体からの医師、看護師など医療従事者の派遣も活発で、JOCS(日本キリスト教海外協力会)や、好善社(「キリスト教の精神の実践」を提唱し、主にタイのハンセン病患者の援助活動にあたっている)、笹川記念保健協力財団(日本財団からの基金によって、WHOの提唱する化学療法の拡大を中心に活動している)などが、現在、積極的にこういった活動をささえています。しかし、明治時代に日本のハンセン病が海外からのたくさんのボランティアによって助けられた歴史をふりかえると、もっとたくさんの人が、ハンセン病がまだ沈静化していない国へ出ていくべきだと思います。
- Q5.ハンセン病は世界ではどのような状況ですか?
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- Q6.ハンセン病の患者さんはなぜ偏見・差別を受けてきたのですか?
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ハンセン病は長い間誤解されてきました。
- ●病気の原因についての誤解
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- 1「天刑病」という誤解
- 昔は説話集や仏教の経典などで、禁じられた行いをしたものは仏の罰としてらい(かつてのハンセン病の呼び名)を患う、などと書かれたことから、ハンセン病は天刑病(天から受けた罰)だと考えられていました。
- 2「遺伝病」という誤解
- ハンセン病は感染症なので、同じ家族の中で複数の患者がでることがあり、遺伝病だと考えられました。 これらの理由から、患者だけでなく、その家族までもが結婚を拒否されたり避けられたりして、いわれのない差別を受けてきたのです。
- ●病気の原因が分かってからの誤解
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- 国の政策による誤解、根強く残っていた偏見
- 1873年に「らい菌」が発見され、ハンセン病が感染症であることが分かりました。ハンセン病の感染力はとても弱いことが分かっていましたが、国による「ハンセン病は強い伝染力をもっている」という間違った宣伝や、患者を強制隔離する政策により、「ハンセン病はとてもこわい感染症である」という誤った認識を人々に植え付けてしまいました。
また、そのような誤った認識に加えて、人々の中にはそれまでの「ハンセン病は遺伝病である」という偏見も根強く残っていました。
こうしてハンセン病に関して誤った認識が一般に広まったため、患者は二重の偏見・差別に苦しんできました。
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- Q7.ハンセン病の患者さんはどうして隔離されたのですか?
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国の政策が大きく影響しています。
- 1「感染する」という事実
- ハンセン病の治療法が見つかるまでは、世界的にゆるやかな隔離政策が進められていました。日本でもそれにならって隔離を始めますが、次第に隔離政策を強化していきました。
- 2「国辱」という認識
- 明治時代、文明国の仲間入りをしようとしていた日本は、欧米では根絶されたハンセン病が自国内に存在していることを恥じ、神社やお寺などで生活をしていた患者を収容・隔離しました。(法律第十一号)
- 3「民族浄化」という考え方
- 軍国主義が進む中、国民は貴重な兵力・生産力であり、健康であることが求められました。そのためハンセン病は排除するべきものと考えられ、在宅療養している方を含むすべての患者が強制隔離されました。(癩予防法) このような理由で、ハンセン病の患者は隔離されてきました。すべての患者を強制隔離する医学的理由のない病気ですから、国の政策が大きく影響していることが分かります。
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- Q8.廃止された「らい予防法」はどんな法律だったのですか?
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「らい予防法」は患者さんを苦しめてきました。
- ●「らい予防法」の前身
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- 1「法律第十一号」癩予防ニ関スル件:1907年
- 「らい予防法」の前身となった法律です。
この法律では、神社やお寺などで生活をしていた患者を収容することを定めており、それに伴って全国に5つの公立療養所を設けました。
また、1916年に改正され療養所長に懲戒検束権が与えられました。懲戒検束権とは、療養所所長の一存で、規則に背いた患者に対して処罰・監禁を行うことができる権利のことです。
- 2「癩予防法(旧法)」:1931年
- 「法律第十一号」を改正したもので、在宅療養している方を含めたすべての患者を隔離することを定めた強制隔離の徹底、就業規制、汚染の疑いのある物品の売買禁止などを定めました。
このころ、自分たちの県からハンセン病の患者を無くそうという「無癩県運動」というものが各地で起こり、この運動によって隔離が一層厳しく行われるようになりました。
- ●「らい予防法」
- 特効薬プロミンが1943年に開発され、日本では1947年に投薬試験が始まり、効果が確認されています。そのことを喜んだ患者たちは「癩予防法」の改正を政府に要求していましたが、聞き入れられないまま1953年に「らい予防法」が公布されました。 この法律は、「癩予防法」の精神を受け継ぎ、強制隔離、継続強制入所、従業禁止、汚染場所の消毒、外出禁止、所長の秩序維持規定など、人権を侵害するもので、治ったあとの退所規定もありませんでした。 この法律には、「近い将来改正を期する」という但し書きがありましたが、1996年に廃止されるまで、実に40年以上にもわたって入所されている方を苦しめました。
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- Q9療養所に入所されている方はどんな暮らしをしているのですか?
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療養所にいる方のほとんどは治っています。
全国には、13の国立の療養所と1つの私立療養所がありますが、ハンセン病の療養所といっても、ハンセン病自体は治っている人がほとんどです。
入所されている方は、後遺症に対するリハビリテーションや、高齢化による高血圧などの生活習慣病の治療などを行っています。また、所内には内科や外科、眼科などの医療施設も整備されています。
また、ゲートボールや俳句、陶芸やカラオケなどの文化活動も大変盛んです。
所内には理髪店、スーパーマーケット、教会やお寺などがあり、みなさんの住んでいるところと同じなのです。- ●岡山県にある療養所
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- 1邑久光明園
- 1907年に公布された「法律第十一号」に伴い設立された5つの公立療養所のうちの一つ「外島保養院」が1934年の室戸台風の被害を受け、長島に再建された療養所です。
- 2長島愛生園
- 1930年、瀬戸内の長島に、日本で最初の国立のハンセン病療養所として設立された療養所です。