1907年〜1930年
[時代背景]
- 「法律第十一号」
(癩予防ニ関スル件)公布1907年
(明治40年) -
明治開国の頃、寺社や寺、あるいは路上などでの生活を余儀なくしていたハンセン病患者は多くの数にのぼっていました。当時急速に「近代国家」を目指していた日本政府にとっては、彼らへの何らかの対策を講じる必要があったため、そこで野外などで生活する患者たちを対象として隔離・収容目的に1907(明治40)年、「法律第十一号」(癩予防ニ関スル件)を制定、公布しました。
法律制定後、それを受けて1907(明治40)年には全国に5カ所の公立療養所が建てられていきました。これらの公立療養所は、現在の国立療養所の前進となっています。
同年、内務省訓令第四十五号「らいに関する消毒規定」が発布され、ハンセン病はコレラ等急性伝染病と同様の厳しい防疫・消毒の対象とされていきました。
・全生病院(現在の多磨全生園)
・北部保養院(現在の松丘保養園)
・外島保養院(現在の邑久光明園)
・大島療養所(現在の大島青松園)
・九州療養所(現在の菊池恵楓園)
- 第2回国際らい会議
<開催地:ノルウェー>1909年(明治42年)
- 「中条資俊」1872年~1947年
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医学者。1901(明治34)年、千葉医学専門学校を卒業後、実地研究のため県立千葉病院内科に入局、1903(明治36)年から約2年間にわたり、医学研究のメッカとされた官立伝染研究所で細菌血清学研究に従事しました。1905(明治38)年からは、ハンセン病患者の救護所となっていた東京都の目黒慰廃園に嘱託医として勤務しました。1909(明治42)年同園を退職後、青森に赴任し、北部保養院医長を務めた後、療養所長兼医長、北部保養院長兼医長と任命され従事する中、治らい薬「TR」を作り出し、広く応用しました。その後、1947(昭和22)年に現職のまま死去するまで、ハンセン病患者の救済と療養所の運営に多大な貢献をしました。
- 「コンウォール・リー」1857年~1941年
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イギリス・カンタベリー生まれ。本名マリー・ヘレナ・コンウォール・リー。名家で幼いころから信仰教育を受け、熱心なキリスト教信者でした。大学で学問を修得するかたわら、教会の教育事業などに携り、1908(明治41)年、51歳の時に宣教師として単身来日。日本聖公会に属し、東京、横浜、沼津などで布教活動を行いました。
熊本の回春病院などハンセン病患者の施設を見学したことをきっかけに、59歳にしてハンセン病救済に生涯を捧げることを決意し、湯之沢に草津伝道所「平和館」を建てました。第一次大戦にわきたつ中、聖バルナバ医院を中心に18のホーム、教会、小学校、保育所を開設。患者とその家族の救済に尽くし、1941年、84歳で死去しました。勲6等瑞宝章が贈られました。
- 「光田健輔」1876年~1964年
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医学者。山口県生まれ。東京帝大医科大学卒業後、東京市養育院に勤務。1908(明治41)年に副医長となりますが、翌年創立された第一区連合府県立全生病院の医長に任命され、ハンセン病の実態・予防法についての研究に取り組むようになりました。1914(大正3)年には、全生病院長となる傍ら、保健衛生調査会委員、内務省社会課勤務となり、らい予防事務視察のため欧米各国などを回りました。1931(昭和6)年、国立長島愛生園開設に伴い初代園長に就任、治療につくすと共に、予防のための患者の隔離収容を推進し、日本の近代のハンセン病の歴史に多大な影響を与えました。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。1957(昭和32)年に退官し、長島愛生園名誉園長となります。山口県防府市、岡山市の名誉市民、ダミエン・ダットン賞受賞。正一位勲一等瑞宝章を授与されました。
- 非合法ながら男性患者に
対する断種手術が始まる1915年
(大正4年)
- 療養所長に入所者への
懲罰を認める
懲戒検束権を与える1916年
(大正5年) -
「癩予防ニ関スル件」が一部改正されて、療養所所長に与えられた権限。入所者に対して最高で30日以内の監禁、7日以内2分の1までの減食などの制裁が行えました。従って、療養所から逃げ出そうとする患者を捕らえて「監房」などに入れるといったことができたのです。これは療養所長が、まさしく「生殺与奪の権利」を掌握するに等しいことでした。
- 「三上千代」1891年~1978年
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山形県新庄藩士族の家に生まれ、山形高等女学校を卒業。1910年、17歳で南伊豆の伝道館に勤務。らい病患者の少女との出会いをきっかけに、救らい活動に取り組むようになります。1917年5月、コンウォール・リー女史の招きにより草津の湯ノ沢へ。同年11月、服部けさ医師を迎え「聖バルナバ医院」の看板を掲げて患者の治療を始めました。1924年、服部けさと相談の上、リー女史の事業を離れて「鈴蘭病院」を作りますが、開院23日目に服部けさが死去。全生病院へ戻り、一時勤務しましたが、翌年、光田健輔の援助を受け、草津に「鈴蘭村」を開きました。1941年には宮城県に患者家族の児童保育所「第二鈴蘭園」を開設、らい患者とその家族のために事業を広げました。1958年、ナイチンゲール賞を受賞。1978年、85歳で死去。
- 「エダ・ライト」1870年~1950年
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イギリス生まれ。叔母ハンナ・リデルと同様、伝道師として来日しました。伝道活動の傍ら英語の指導などに携わっていましたが、1923(大正12)年、リデルの活動を助けるため回春病院に赴任し、ハンセン病の救済活動に従事しました。リデルの没後、二代目院長として院内外での救済活動に積極的に取り組みますが、戦争の影響により1941(昭和16)年に回春病院は閉鎖、ライトはオーストラリアへの国外追放を余儀なくされました。しかし、その後、1948(昭和23)年に再来日し、1950年に80歳で亡くなるまで、龍田寮(未感染児童施設)の子供たちや患者たちへの献身の日々を過ごしました。没後、政府より勲4等瑞宝章が贈られています。
- 「小笠原登」1888年~1970年
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愛知県甚目寺町にある円周寺の二男として生まれました。祖父・小笠原啓導は、僧侶であるとともに、漢方医術でらい病、淋病、梅毒、瘰癧などの治療をしたといわれています。1915年、京都帝大医学科を卒業後、同校で薬物学を研究。1925年、皮膚科泌尿器科に転じ、翌年かららい病の治療を担当。1938年、らい病の診療及び研究施設として新設された皮膚科特別研究室の主任となり、1941年には同大学の助教授に任命されます。その間、らいの発病は感染よりも体質を重視すべきこと、らいは不治ではないことなどの考えから、当時の強制隔離・断種に反対しましたが、当時の学会などでは彼の主張が受け入れられることはありませんでした。1948年から国立豊橋病院、奄美和光園を経て、1966年に退官。1970年、円周寺にて81歳で死去。
- 第3回国際らい会議
<開催地:フランス>1923年(大正12年) -
ハンセン病に対しての国内の動きとは反して、国際らい会議の席上ではハンセン病は感染症であって遺伝病ではないことや、ハンセン病の予防上隔離政策が有効ではあるが実施にあたっては柔軟な態度でのぞみ、細かい配慮を払うべきだということが決議されました。
- 無らい県運動はじまる1929年
(昭和4年) -
ハンセン病患者を全部隔離するという国の計画に基づき、警察官などを動員して摘発、隔離するという官民一体となった運動のこと(無癩県=ハンセン病患者がいなくなった県)。この年愛知県で始まった民間運動をきっかけにして、全国的に展開されました。特に戦前の軍国主義の背景のもと、1934(昭和9)年頃から太平洋戦争勃発の頃にかけては「民族浄化」をスローガンに広がっていきました。これはすなわち、ハンセン病は「不浄」であるとの意識を植え付ける結果となり、偏見や差別を一層押し広げてしまいました。
- 国立療養所第1号
として岡山県に
長島愛生園が開設1930年(昭和5年) -
「癩予防法」(旧法)制定前年に、従来の公立療養所の国立への移管、国立療養所の増設がはじまります。その中の最初となったのが、岡山県長島に開設された長島愛生園でした。
収容人員400名、初代園長は光田健輔でした。