1952年〜1990年
[時代背景]
- 「らい予防法」
(新法)制定1953年
(昭和28年) -
「癩予防法」(旧法)の流れを受けて1953(昭和28)年に制定された法律。ハンセン病の疑いがかけられると、強制的に入所させることができたり、法律に退所規定がないなど、入所者の人権を全く無視し、拘束し続けることが可能な項目が盛り込まれる。「近い将来改正を期する」とされたこの法律は以後43年もの間改正されませんでした。
1963(昭和38)年には全患協が厚生大臣宛に「らい予防法改正要請書」を提出、国の政策の誤りを徹底的に糾弾し、その根本的転換を強く求めました。
- 「ローマ宣言」採択1956年(昭和31年)
-
イタリア・ローマにおいて世界51カ国、250名の代表者が出席した「ハンセン病患者の救済及び社会復帰に関する国際会議(ローマ会議)」が開催されました。会議ではハンセン病は感染力が微力であることを確認し、差別待遇的な諸立法の撤廃、在宅医療の推進、早期治療の必要、社会復帰援助等が決議されました。
更にその2年後の東京で開催された第7回国際らい会議では、強制隔離している国は、その政策を全面的に破棄するよう推奨されました。
- WHO(世界保健機構)が
差別的な法律の
撤廃と外来治療を提唱1960年
(昭和35年) -
世界51カ国が参加したローマ国際会議<1956(昭和31)年>、東京で行われた国際らい学会<1958(昭和33)年>で、「隔離」は必要ないと決議され、1960(昭和35)年においては、WHO(世界保健機構)がハンセン病を差別した法律の撤廃と外来治療を提唱しました。つまり国内のハンセン病対策は、全く世界の大勢と逆行していましたが、その大元となる「らい予防法」(新法)が廃止されるにはそれから40年もの時間が必要でした。
- リファンピシン
治療開始1971年
(昭和46年) -
もともと結核の治療薬だったリファンピシンがハンセン病の治療にも効果があることが分かりました。治癒までの期間や再発が大幅に減ることから、以後リファンピシンがハンセン病治療の中心となっていきます。
1981(昭和56)年からはWHO(世界保健機構)の提唱のもと、リファンピシンに加えてファジミン及びダプソン(ジアフェニルスルホロン)の三つの薬を使用する多剤併用療法が行われていきます。
- 邑久光明園、
長島愛生園
の連合で長島架橋
促進委員会設置1972年
(昭和47年) -
長島から本土まではわずか30mの水路により隔てられるにすぎません。しかしこのわずかな距離が長年人間差別の障壁となってきました。
1972(昭和47)年、邑久光明園、長島愛生園の両園の連合によって、この島と本土とを結ぶ「人間回復」への橋の実現に向け架橋促進委員会が設置され、国、県、地元に対して要請運動を展開していきました。
- 邑久長島大橋開通1988年
(昭和63年) -
隔離からの解放を象徴する橋が架橋促進委員会の運動や国、県、地元の協力により、16年の年月を経て開通しました。