1867年〜1906年
[時代背景]
- ハンセン博士
らい菌を発見1873年
(明治6年) -
かつて、ハンセン病は遺伝性疾病と考えられていましたが、1873(明治7)年ノルウェーの医師、G・H・アルマウェル・ハンセンは、“らい菌”による感染症であることを発見。後に、1897(明治30)年の第1回国際ハンセン病学会議で、ハンセン病が感染症であることが正式に認められたのです。
- 神山復生病院、
回春病院開設1889年
(明治22年)~ -
日本における本格的なハンセン病療養所が開設されましたが、いずれも布教活動で来日したキリスト教宣教師たちの尽力でした。彼らの目に映ったのは、差別視の社会の中で冷遇されていたハンセン病患者たちの姿だったのです。
フランス人テストウィード神父は国内を巡回伝道中に赴いた足柄街道で、失明した女性ハンセン病患者に出会ったことを契機に、日本初のハンセン病療養所「神山復生病院」を開設、また、イギリス人の宣教師ハンナ・リデルは同じく伝道で赴いた熊本の地でハンセン病患者たちの姿に強い衝撃を受け、熊本郊外に「回春病院」を開設したのでした。
その他、アメリカ人宣教師ケート・ヤングマンにより、東京目黒に「慰廃園」が開設されました。また、後に、フランス人宣教師ジョン・マリー・コール神父により、熊本郊外に「琵琶崎待労院」が、イギリス人コンウォール・リーの手によって草津湯之沢に「聖バルナバ医院」などが開設されていきます。
- 「テストウィード神父」1849年~1891年
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フランス生まれ。1873(明治6)年にパリ外国宣教会の宣教師として来日し、日本各地を巡回伝道していきます。この巡回伝道のときに、足柄街道筋の水車小屋で盲目の女性患者との出会ったことから、日本最初のハンセン病療養所となる神山復生病院の設立を決意しました。
「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら、苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院をたて、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と病院設立許可を得るにあたって説明したといわれています。
その後病を得て、治療のために赴いた香港の地で42年の生涯をとじました。
- 「ケート・ヤングマン」1841年~1910年
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アメリカ生まれ。1873(明治6)年に来日し、「キリストの精神をいかに社会的に実践するか」の精神のもと1877(明治10)年に好善社が組織されました。
その活動の中、1人の女性患者との出会いが転機となり、イギリスの救癩協会から資金援助を受け、1894(明治27)年東京目黒村に慰廃園を設立しました。
ハンセン病患者に対するキリスト教の伝道、すなわち福音による救済を目的とし、その後、1899(明治32)年に慰廃園が病院組織へと移り変わっていく中で第一線から退きました。1910(明治43)年、69歳で亡くなりました。
- 「ハンナ・リデル」1855年~1932年
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イギリス生まれ。イギリス国教会伝道会の伝道師として来日。1890(明治23)年、布教のために訪れた熊本の本妙寺で、参道に集まるハンセン病患者の悲惨な姿に衝撃をうけ、このきっかけから以後ハンセン病患者への救済活動に取り組むようになります。1895(明治28)年、自身の財産を投じて熊本県・黒髪の地に回春病院を設立しました。病院内には障害者のためのスロープなどの配慮や、ボランティアも組織されました。
その後病院事業を軸としながら沖縄や草津などへも活動の輪を広げていき、総理大臣であった大隈重信らに働きかけ「らい予防法」制定のきっかけを作るなど、生涯、日本のハンセン病患者の救済に尽力しました。
これらの功績に対して、日本政府より藍綬褒章が贈られています。1932(昭和7)年、76歳で死去しました。
- 「コール神父」1850年~1911年
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フランス出身の宣教師。本名は、ジャン・マリー・コール。1876(明治9)年、26歳で長崎に来日。1889(明治22)年、大日本帝国憲法の発布により信仰の自由が保障されると、ただちに熊本市手取教会の主任神父として派遣されました。そこで神父は布教活動の傍ら、貧しい人、ハンセン病患者の救済に力を注ぐようになります。やがて、島崎町琵琶崎に土地を買い、ここを本拠に本妙寺の中腹の中尾丸の施療活動を始め、イエズス会の修道女2名、伝道婦2名の助けのもとに、治療、ミサ聖祭、キリスト教講話、洗礼など積極的な活動を行いますが、過労に倒れてしまいます。1900(明治33)年、この救らい事業を引き継いでくれる修道女の派遣をローマ教皇庁に申請し、後にマリアの宣教者5人の修道女とよばれる人たちの来日のきっかけを作りました。
- 「マリアの宣教者・5人の修道女」
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救済事業を行っていたコール神父の申請を受けて派遣された、フランシスコ修道会(本部はローマ)の修道女たち。同修道会の会長、マリア修道女(マリー・ヘレン・ド・シヤポテン)は、申請を直ちに快諾し、翌年の1898(明治31)年、シスター・マリー・コロンバ(修道院長、26歳、フランス人)シスター・マリー・ベアタ(副修道院長、25歳、カナダ人)、シスター・マリー・トリフイン(25歳、フランス人)、シスター・マリー・ピュルテー(25歳、フランス人)、シスター・マリー・アンニツク(30歳、フランス人)という若い修道女5人を日本へと送り出しました。40日余りの航海を経て来日した彼女たちは、コール神父とともに待労病院で献身的に救済活動を行いました。
- 第1回国際らい会議
<開催地:ベルリン>1897年
(明治30年)