おかやまハンセン病啓発WEB ハンセン病を正しく理解するために ~みんなで描くひとつの道~

歴史

1931年〜1951年
[時代背景]

「癩予防法」
(旧法)公布
1931年
(昭和6年)

 「癩予防ニ関スル件」は、度々部分改正されながら患者に対する管理・隔離の強化がはかられ、1931(昭和6)年の改正で法律名も「癩予防法」となります。
 これは、それまでは自宅療養していた在宅患者までを含めたすべての患者を対象に強制隔離を徹底するほか、様々な規制・禁止項目が盛り込まれた政策でした。
一方、当時の国際機関である国際連盟保健委員のビュルネ氏が来日、大日本医学会総会での講演において政府の絶対隔離政策を批判するという出来事がありました。

内務省
「らいの根絶策」実施
1936年
(昭和11年)

 患者をすべて隔離し、「絶滅」させる政策。
 結果として全国で無らい県運動を活発化させることになりました。更に1940(昭和15)年には、今度は厚生省より都道府県あてに無癩県運動の徹底が指示されていきました。

「長島事件」
が起こる。
1936年
(昭和11年)

 入園者が患者の自治権、労働環境の改善を求めた「長島事件」が起こる。

「アメリカで開発された
特効薬〈プロミン〉の
効果が公表」
1943年
(昭和18年)

 1941(昭和16)年、アメリカのカービル国立療養所で、結核患者のために研究開発されてきた「プロミン」という薬が、ハンセン病患者に使用され、劇的な効果をあげることが発表されました。これにより、ハンセン病は「治る病気」になったのです。
 日本にその有効性が報告されたのは、1943(昭和18)年という太平洋戦争のただ中の頃でした。

東大薬学教室・石館守三、
プロミン合成に成功
翌年よりプロミンの治験を
開始
1946年
(昭和21年)
法律第百五十六号
「優生保護法」
公布
1948年
(昭和23年)

 ハンセン病患者に対しては、1915(大正4)年より非合法ながら男性患者に対する断種手術が始まっていましたが、「優生保護法」の公布によってハンセン病患者への優性手術(不妊手術)及び人工中絶手術が合法的に認められ、ハンセン病患者に対する絶滅政策が行われました。

「プロミン獲得運動」1948年(昭和23年)

 1943(昭和18)年にハンセン病に対して著しい効果のあるプロミンがアメリカから報告されましたが、経済力のない患者にとっては入手が困難であったため、1948(昭和23)年、「だれにもプロミンを」とプロミン獲得促進実行委員会が結成し、おしすすめた運動。最終的に国に予算化を認めさせる成果を見た。この運動をきっかけにして各療養所の患者自治会を組織としてまとめた全国ハンセン病患者協議会(「全患協」。現在は、全国ハンセン病療養所入所者協議会=「全療協」)の結成にむかわせた。

プロミンの予算化を
求める運動始まる
1949年(昭和24年)

 国内でのプロミンの治験の結果、劇的な効果がしめされました。特に一足早くプロミンを試用していた多磨全生園ではプロミン獲得促進委員会が設置され、プロミンの予算化を求める運動が急速に盛り上がっていきます。そうした結果、翌年には5,000万円のプロミン予算が計上されました。

全国国立癩療養所
患者協議会
(後の全患協)結成
1951年
(昭和26年)

 プロミンの予算化を求める運動は、国会議員や文化人などの理解と支援も得る全国的な展開をみせ、それが各療養所の患者自治会を全国組織としてまとめる下地となっていきます。そして1951(昭和26)年、全国国立癩療養所患者協議会(後の全患協、現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会「全療協」)を結成、翌年には「癩予防法改正促進委員会」を設置して、懲戒検束規定の廃止、感染のおそれのない患者の退園、一時帰省の法定化など「癩予防法」の改正を強く求めていきました。

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